last_modified: 2026-01-04
免責事項: 本記事は、Eugene Wignerによる論文 Trans. Faraday Soc. 1938, 34, 29-41 を基に、生成AIによって作成された解説記事です。数式や論理の正確な内容は、必ず原著論文を参照してください。
1. 序論:反応速度論におけるWignerの視座
1930年代後半、化学反応速度論は大きな転換点を迎えていた。1935年にEyring、Evans、Polanyiによって独立に提唱された遷移状態理論(TST)は、化学反応を「活性錯合体(Activated Complex)」という概念を用いて記述する画期的な枠組みを提供した。しかし、その理論的基礎、特に導入された仮定の妥当性や適用限界については、依然として厳密な検討が必要とされていた。
1938年、Eugene Wignerは『The Transition State Method』と題する論文を発表し、TSTの物理的基礎を再検討した。この論文においてWignerは、TSTが成立するための必要十分条件を整理し、反応速度を統計力学的および熱力学的に導出する一般化された手順を示した。さらに、量子力学的効果、特にトンネル効果が反応速度に与える影響を摂動論的に取り扱う手法(Wigner補正)を導入した。本稿では、この記念碑的論文の内容を、数理的導出と物理的解釈の両面から深掘りする。
2. 遷移状態法の基礎仮定
Wignerは、遷移状態法(Transition State Method)が厳密な反応速度を与えるために必要な3つの基本的な仮定を明確に定義した。
2.1 断熱仮定(Adiabatic Assumption)
反応過程において、電子の運動は原子核の運動に比べて十分に速く、電子状態は断熱的に追随すると仮定する。これにより、原子核の運動は単一のポテンシャルエネルギー曲面(Potential Energy Surface: PES)上の運動として記述可能となる。 もし電子状態間の遷移(非断熱遷移)が起こる場合、反応確率は透過係数 ()によって補正される必要がある。
2.2 古典的運動の仮定(Classical Motion Assumption)
原子核の運動は古典力学(ニュートンの運動方程式)に従うと仮定する。 この仮定は、原子核のド・ブロイ波長がポテンシャル曲面の曲率半径に比べて十分に小さい場合に正当化される。しかし、水素原子移動のような軽い粒子が関与する反応や低温条件下では、トンネル効果などの量子効果が無視できなくなる。Wignerはこの点について、後に詳述する量子補正を導入することで対処した。
2.3 平衡仮定と再交差なし(Equilibrium and Non-recrossing)
最も核心的な仮定は、反応のボトルネックとなる「遷移状態」を通過する軌道の挙動に関するものである。
- 活性化錯合体の平衡: 遷移領域にある系は、反応物と熱平衡にあると見なせる(ボルツマン分布に従う)。
- 再交差なし(No Recrossing): 活性化錯合体の定義となる曲面(分割面)を反応物側から生成物側へ横切った軌道は、二度と戻らない。
Wignerは、もし古典力学が厳密に成り立ち、かつ適切な分割面(再交差を最小にする面)を選べば、この方法で計算された速度は古典的な厳密解と一致、あるいはその上限を与えることを示した。
3. 反応速度式の数理的導出
Wignerは、位相空間上の流束(Flux)を計算することで、反応速度定数の一般式を導出した。
3.1 位相空間における反応確率
原子の系を考える。一般化座標 と共役運動量 を用いると、反応速度 は、活性化曲面 を通過する位相点の数として表される。
ここで、積分領域は活性化曲面上で、かつ生成物方向へ向かう速度を持つ領域に限られる。 活性化曲面において、反応座標 に沿った運動を分離すると、速度式は以下のように変形される。
ここで、 は活性化錯合体(反応座標を除く自由度)の分配関数、 は反応物の分配関数、 は活性化エネルギーである。この式はEyringの式と一致するが、Wignerの導出は特定の反応座標の定義に依存せず、位相空間上の統計力学から直接的に導かれている点が特徴である。
3.2 熱力学的定式化
反応速度定数は、熱力学的諸量を用いても表現される。
ここで は頻度因子( 程度)、、、 はそれぞれ活性化ギブスエネルギー、活性化エンタルピー、活性化エントロピーである。 Wignerは、これらの熱力学的量が統計力学的な分配関数とどのように対応するかを明確にし、実験的に観測される「立体因子」や「頻度因子」が、活性化錯合体の振動数や慣性モーメントの変化として解釈できることを示した。
4. 量子補正:Wignerのトンネル補正
古典的仮定(2.2)が破れる場合、特に低温や軽い原子の移動において、粒子がポテンシャル障壁を「トンネル」して反応する確率を考慮する必要がある。Wignerは、プランク定数 の展開を用いた摂動論的アプローチにより、最初の量子補正項(Wigner Correction)を導出した。
4.1 補正係数の導出
量子力学的な分配関数は、古典的な分配関数に対して のオーダーで以下の補正項を持つ。
これを反応速度比に応用すると、トンネル効果による補正係数 は、反応座標上のポテンシャル曲率 (虚数の振動数 の大きさ)を用いて次のように近似される。
この式は、Wignerのトンネル補正として知られ、障壁が放物線で近似できる場合において、トンネル効果による反応速度の増大を簡便に見積もる公式として広く利用されている。
4.2 補正の意味と限界
- 温度依存性: 補正項は に比例するため、低温ほどトンネル効果の寄与が大きくなることを示している。
- 同位体効果: 振動数 は質量の平方根に反比例するため、軽い同位体(水素など)ほど補正量が大きく、大きな同位体効果(KIE)が生じる物理的根拠を与える。
- 限界: この近似は の低次項のみを考慮しているため、トンネル効果が極めて大きい極低温領域や、障壁の形状が複雑な場合には適用できない。その場合は、より高次の補正や、後のBellやTruhlarらによる多次元トンネル理論が必要となる。
5. 結論と科学的意義
Eugene Wignerの1938年の論文は、遷移状態理論を「直感的なモデル」から「物理学的に基礎付けられた理論」へと昇華させた。
- 理論の厳密化: TSTが成立するための条件(断熱性、古典性、平衡性)を明示し、理論の適用限界を明確にした。
- 変分原理の萌芽: 分割面の位置を最適化することで古典的な再交差を最小化できるという議論は、後の変分遷移状態理論(Variational TST) の基礎となる考え方であった。
- 量子効果の定式化: トンネル効果を分配関数の量子補正として取り扱うWignerの方法は、量子化学計算における標準的な手法の一つとなり、現代でも反応速度の第一原理計算において広く用いられている。
本論文は、化学反応という複雑な動的過程を、統計力学と熱力学の言葉で記述し、さらに量子力学的な微視的補正を加えることで、巨視的な反応速度定数を定量的に予測する道を切り開いた歴史的マイルストーンである。
参考文献
- Wigner, E. “The Transition State Method”. Trans. Faraday Soc. 1938, 34, 29-41.
- Eyring, H. J. Chem. Phys. 1935, 3, 107.
- Evans, M. G.; Polanyi, M. Trans. Faraday Soc. 1935, 31, 875.