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二つのカスプ条件と基底関数の収束性:Tosio Katoの定理と明示的相関法

last_modified: 2026-01-21

1. 概要 (Overview)#

ハミルトニアンに含まれるクーロンポテンシャル項は、粒子間距離がゼロになる点 (r0r \to 0) で特異点(無限大)を持つ。 シュレーディンガー方程式 HΨ=EΨH\Psi = E\Psi が物理的に有限なエネルギー EE を与えるためには、運動エネルギー項(ラプラシアン 2Ψ\nabla^2\Psi)から生じる発散が、このポテンシャルの発散を正確に相殺しなければならない。 この数学的要請から導かれる、波動関数の一次導関数における不連続性(尖り)に関する定理が、加藤のカスプ条件 (Kato’s Cusp Condition) である。これは数学者・加藤敏夫 (Tosio Kato) によって1957年に定式化された。

2. 原子核カスプ (Nuclear Cusp)#

電子と原子核の接近 (riA0r_{iA} \to 0) における特異性。

  • 加藤の定理 (Kato’s Theorem): 原子核 AA(電荷 ZAZ_A)の位置における電子密度 ρ\rho の球平均 ρˉ\bar{\rho} は以下の条件を満たす。 (ρˉriA)riA=0=2ZAρˉ(riA=0)\left( \frac{\partial \bar{\rho}}{\partial r_{iA}} \right)_{r_{iA}=0} = -2Z_A \bar{\rho}(r_{iA}=0) (波動関数 Ψ\Psi で記述する場合、Ψ/r=ZAΨ\partial \Psi / \partial r = -Z_A \Psi

  • 基底関数の対応:

    • STO (Slater-type Orbital): eζre^{-\zeta r} の関数形を持つため、1電子系(水素様原子)においては、この条件を形式的かつ厳密に満たすことができる。
    • GTO (Gaussian-type Orbital): eαr2e^{-\alpha r^2} の関数形を持つため、原点での傾きがゼロとなり、この微分不連続性を数学的には満たさない。
    • 実務的対応: ただし、多数のGTOを線形結合した短縮基底 (Contracted GTO) を用いることで、原点付近の形状をSTOに極めて近づけることは可能である。現代計算では、数学的な厳密性よりも積分計算の利便性を優先し、十分な数のGTOでカスプを「模倣」するアプローチが採られる。

3. 電子間カスプ / クーロンカスプ (Electron-Electron Cusp)#

電子同士の衝突 (rij0r_{ij} \to 0) における特異性。動的電子相関の記述において中心的な課題となる。

  • 形状: 下に突 (Coulomb Hole) 電子間の反発 (+1/rij+1/r_{ij}) により、2電子波動関数 Ψ(r12)\Psi(r_{12})r120r_{12} \to 0 で確率が急激に減少する「窪み」を持つ。
  • 数学的条件: 異符号スピンの電子対に対して: (Ψrij)rij=0=12Ψ(rij=0)\left( \frac{\partial \Psi}{\partial r_{ij}} \right)_{r_{ij}=0} = \frac{1}{2} \Psi(r_{ij}=0)

3.1 標準的手法(Orbital Product)の限界#

Hartree-Fock法や従来のCI/CC法では、多電子波動関数を「1電子軌道の積(スレーター行列式)」で展開する。 しかし、1電子軌道 ϕ(r)\phi(\mathbf{r}) は空間座標 r\mathbf{r} の関数であり、電子間距離 r12=r1r2r_{12} = |\mathbf{r}_1 - \mathbf{r}_2| を明示的な変数として含んでいない。 Kutzelnigg (1985) らは、滑らかな軌道積の線形結合でこの鋭いカスプを再現しようとすると、部分波展開の収束が極めて遅くなることを示した(エネルギー誤差は最大角運動量 LL に対して (L+1)3(L+1)^{-3} でしか減衰しない)。

これこそが、「基底関数を極限まで大きくしても(CBS極限)、CI/CCの相関エネルギーがなかなか収束しない」という数理的実体である。

4. 解決策:明示的相関法 (Explicitly Correlated Methods)#

この「ゆっくりとした収束」を克服するために、波動関数に電子間距離 r12r_{12} に依存する項(相関因子)を直接(Explicitly)組み込む手法が開発された。

  • R12 / F12法: ΨR12=Ψref+Q^ijf(rij)Ψij\Psi_{R12} = \Psi_{ref} + \hat{Q} \sum_{ij} f(r_{ij}) \Psi_{ij} ここで f(rij)f(r_{ij}) はカスプ条件を満たすように設計された相関因子(線形 r12r_{12} や スレーター型 eγr12e^{-\gamma r_{12}} など)である。
  • 利点: Ten-no (2004) 等によるF12法の発展により、比較的小さな基底関数(例:double-zeta)を用いても、従来の巨大基底(quintuple-zeta相当)と同等の精度が得られるようになった。これは実質的に「電子間カスプ問題」の実務的な解決策とみなされている。

5. 主要参考文献 (Key References)#

本稿の記述は、以下の基礎文献に基づいている。

  1. Kato’s Cusp Condition: Kato, T. (1957). “On the eigenfunctions of many-particle systems in quantum mechanics”. Communications on Pure and Applied Mathematics, 10(2), 151-177. (加藤敏夫による原典。多体波動関数の特異点に関する数学的証明)

  2. Gaussian Product Theorem: Boys, S. F. (1950). “Electronic Wave Functions. I. A General Method of Calculation for the Stationary States of Any Molecular System”. Proceedings of the Royal Society A, 200, 542. (GTOの導入と積の定理による積分高速化の提案)

  3. Basis Set Convergence: Kutzelnigg, W. (1985). “r12-dependent terms in the wave function as closed sums of partial wave amplitudes for large l”. Theoretica Chimica Acta, 68, 445-469. (カスプにおける波動関数の部分波展開と、エネルギー収束速度の理論的解析)

    Helgaker, T., et al. (1997). “Basis-set convergence of correlated calculations on water”. The Journal of Chemical Physics, 106, 9639. (CBS極限への外挿スキームの確立)

  4. Explicitly Correlated Methods (F12): Ten-no, S. (2004). “Initiation of explicitly correlated Slater-type geminal theory”. Chemical Physics Letters, 398(1-3), 56-61. (現代的なF12法の実装と、Slater型ジェミナルの有効性)

二つのカスプ条件と基底関数の収束性:Tosio Katoの定理と明示的相関法
https://ss0832.github.io/posts/20260121_compchem_cusp/
Author
ss0832
Published at
2026-01-21
License
CC BY-NC-SA 4.0

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