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相対論的量子化学:スカラー効果、スピン軌道相互作用、およびECP
last_modified: 2026-01-21
1. 概要 (Overview)
非相対論的量子化学(シュレーディンガー方程式)は、光速 を無限大 () と仮定している。 しかし、原子番号 が大きい重原子の内殻電子は、原子核の強い引力により光速に近い速度()で運動する。これにより、質量増大などの相対論効果が無視できなくなる。 計算化学において、相対論効果は主にスカラー相対論効果 (Scalar Relativistic Effects) と スピン軌道相互作用 (Spin-Orbit Coupling, SOC) の二つに分類して扱われる。
2. 物理的現象と化学的帰結 (Phenomena and Consequences)
2.1 スカラー相対論効果
電子の質量 が速度 の増加に伴い増大する効果 () と、ダーウィン項(電子の位置のゆらぎ)などのスピンに依存しない補正。
- s, p軌道の収縮: 質量増大により内殻のs軌道が原子核に引き寄せられ、収縮する。直交性の制約により、外殻のs, p軌道も連動して収縮する。
- 例: 金 () の色が黄色である理由(5d-6sギャップの縮小)、水銀 () が液体である理由(6s軌道の安定化による結合性低下)。
- d, f軌道の拡張: 内殻s, p軌道の収縮に伴い、原子核電荷の遮蔽効果が高まるため、d, f軌道は逆に外側へ広がり、エネルギー的に不安定化(上昇)する。
2.2 スピン軌道相互作用 (SOC)
電子のスピン角運動量 と軌道角運動量 が磁気的に相互作用する効果。ベクトル的な補正であり、スピン対称性を破る。
- 縮退の分裂 (Splitting): 非相対論では縮退している軌道(例: p軌道, d軌道)が、全角運動量量子数 に応じてエネルギー分裂を起こす。
- 重要性: 重原子を含む系の励起状態、項間交差 (Intersystem Crossing)、燐光 (Phosphorescence) の計算において支配的な役割を果たす。
3. 実装階層:ハミルトニアンの近似 (Hierarchy of Hamiltonians)
計算コストと精度のバランスに応じた、3つの主要なアプローチが存在する。
3.1 レベル1: 有効内殻ポテンシャル (Effective Core Potential, ECP)
内殻電子を明示的に扱わず、パラメータ化されたポテンシャル(擬ポテンシャル)に置き換える手法。
- 原理: 内殻電子の相対論効果をポテンシャルの中に「焼き込む」ことで、価電子のみを非相対論的シュレーディンガー方程式で計算する。
- 利点: 計算コストが劇的に低下する。基底関数系も小さくて済む(LanL2DZ, SDDなど)。
- 欠点: 内殻物性(X線吸収など)は計算不可。コア近傍のトポロジーは失われる。
3.2 レベル2: スカラー相対論的全電子計算 (Scalar Relativistic All-electron)
全電子を扱いながら、相対論効果のうち「スカラー項」のみを取り込んだハミルトニアンを用いる。
- Douglas-Kroll-Hess (DKH) 法: 外部ポテンシャルの特異点を取り除くユニタリ変換を用いる。DKH2, DKH4などの次数がある。
- ZORA (Zeroth-Order Regular Approximation): ディラック方程式の小成分を正則化して近似する。内殻付近の記述に優れる。
- 用途: 重原子を含む構造最適化や結合エネルギー計算の標準。
3.3 レベル3: 4成分/2成分ディラック方程式 (4-component / 2-component Dirac)
スピン軌道相互作用を含めた完全な相対論的取り扱い。
- 4成分 (Dirac-Coulomb): 電子(大成分スピノル)と陽電子(小成分スピノル)を露わに扱う。コストは非相対論の数十倍~百倍以上。
- 2成分 (X2C, BSSなど): 陽電子成分を厳密に分離し、電子成分のみのハミルトニアンを構築する。4成分とほぼ同等の精度で低コスト。
- 用途: 精密な分光予測(g値、NMR遮蔽定数、励起エネルギー)。
4. 結論 (Conclusion)
- 第1~3周期 (H - Ar): 相対論効果は無視可能(シュレーディンガー方程式で十分)。
- 第4周期 (K - Kr): 遷移金属の精密計算にはスカラー効果あるいはECPが推奨される。
- 第5周期以降 (Rb - ): 相対論効果の考慮は必須である。これを無視した計算結果(非相対論)は、定性的にも誤り(結合長の過大な誤差、誤った電子配置)を含むリスクが高い。
- 励起状態・分光: 重原子が関与する項間交差を扱う場合は、SOCを含めた計算(2成分以上または摂動論的SOC)が必要となる。
相対論的量子化学:スカラー効果、スピン軌道相互作用、およびECP
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