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基底関数の数学的選択:STOの物理的正確性とGTOの積分容易性

last_modified: 2026-01-21

1. 概要 (Overview)#

シュレーディンガー方程式の厳密解(水素原子)から導かれる動径関数は eζre^{-\zeta r} の形を持つ。これを模したスレーター型軌道 (STO) は物理的に理想的な振る舞いを示す。 しかし、現代のほぼ全ての量子化学計算プログラム(Gaussian, GAMESS等)は、物理的には不正確な eαr2e^{-\alpha r^2} の形を持つガウス型軌道 (GTO) を採用している。 この選択は、多中心電子反発積分(ERI)の計算コストを削減するための、純粋に数学的・工学的な要請に基づくものである。

2. スレーター型軌道 (STO: Slater Type Orbital)#

2.1 定義と物理的利点#

χSTO(r)rn1eζrYlm(θ,ϕ)\chi^{STO}(r) \propto r^{n-1} e^{-\zeta r} Y_{lm}(\theta, \phi)

  • カスプ条件 (Cusp Condition): 原子核位置 (r0r \to 0) において、波動関数の微分係数が不連続(尖っている)になる。これはハミルトニアンの特異点 (1/r1/r) を相殺するために必須の物理的条件である(加藤のカスプ条件)。
  • 漸近挙動 (Asymptotic Behavior): 遠方 (rr \to \infty) において、波動関数は eζre^{-\zeta r} で減衰する。これは電子のトンネル効果などを正しく記述する。

2.2 実装上の障壁:多中心積分#

Hartree-Fock法などで必要となる「4中心2電子積分」(μνλσ)(\mu\nu|\lambda\sigma) を計算する際、異なる中心(原子核 A, B, C, D)を持つSTOの積を計算しなければならない。 χA(1)χB(1)1r12χC(2)χD(2)dτ1dτ2\iint \chi_A^*(1) \chi_B(1) \frac{1}{r_{12}} \chi_C^*(2) \chi_D(2) d\tau_1 d\tau_2 STOの場合、この多中心積分には解析的な解が存在せず、数値積分に頼らざるを得ないため、計算コストが極めて高くなる。これが1950-60年代の計算化学の限界であった。

3. ガウス型軌道 (GTO: Gaussian Type Orbital)#

3.1 定義と物理的欠陥#

χGTO(r)xlymzneαr2\chi^{GTO}(r) \propto x^l y^m z^n e^{-\alpha r^2} S.F. Boys (1950) により導入された。

  • 欠陥1 (Smooth Cusp): r0r \to 0 において傾きがゼロ(滑らか)になり、尖っていない。原子核近傍の電子密度記述に失敗する。
  • 欠陥2 (Fast Decay): rr \to \infty において eαr2e^{-\alpha r^2} で減衰するため、STOよりも急速にゼロに近づきすぎる(裾が短い)。

3.2 採用の理由:ガウス関数の積の定理 (Gaussian Product Theorem)#

物理的な欠陥に目をつぶってでもGTOを採用する唯一にして最大の理由は、以下の数学的性質にある。

「異なる中心を持つ2つのガウス関数の積は、ある別の中心を持つ1つのガウス関数で表現できる」

eαrA2×eβrB2=Ke(α+β)rP2e^{-\alpha |\mathbf{r} - \mathbf{A}|^2} \times e^{-\beta |\mathbf{r} - \mathbf{B}|^2} = K e^{-(\alpha+\beta) |\mathbf{r} - \mathbf{P}|^2} ここで P\mathbf{P} は線分 AB\mathbf{AB} 上の点である。

この定理により、困難な4中心積分は、直ちに2中心積分(さらには解析的な数式)へと帰着される。 これにより、積分の計算速度はSTOと比較して数桁~数千倍オーダーで高速化された。

4. 解決策:短縮ガウス基底 (Contracted Gaussian Basis Set)#

GTOの物理的欠陥(形の悪さ)と、STOの計算的欠陥(積分の遅さ)を両立させるため、**「複数のGTOを固定係数で線形結合し、STOの形に近似する」**手法が採られる。

χμCGTO=kdμkχkGTO(αk)\chi^{CGTO}_{\mu} = \sum_{k} d_{\mu k} \chi^{GTO}_k(\alpha_k)

  • STO-nG: nn 個のGTOを用いて1つのSTOを近似する最小基底系(例: STO-3G)。原子核付近では係数の大きな鋭いGTOを、遠方では係数の小さな緩やかなGTOを配置することで、擬似的にカスプとテイルを表現する。
  • 分割原子価基底 (Split-valence): 内殻は1つのCGTO、原子価軌道は複数のCGTO(例: 6-31G)で表現し、柔軟性を持たせる。

結論 (Conclusion)#

我々がガウス関数を使うのは、自然界の電子がガウス分布しているからではない。**「ガウス関数同士の積積分が簡単だから」**という計算機科学的な都合(あるいは怠惰)によるものである。 しかし、この「近似のコスト」を「基底関数の数」で補う(1つのSTOを3~10個のGTOで表現する)戦略こそが、今日の巨大分子計算を可能にしている。

基底関数の数学的選択:STOの物理的正確性とGTOの積分容易性
https://ss0832.github.io/posts/20260121_compchem_sto_gto/
Author
ss0832
Published at
2026-01-21
License
CC BY-NC-SA 4.0

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